kisekisupport’s diary

様々な経験と感動を記していきます

忘れてはいけない27年前の記憶(中編)

全国で新型コロナのオミクロン株による感染爆発が始まり、また、

まん延防止法が多くの自治体に適用されますね。

飲食店を中心に制限をかけても今回は効果は限定的なのではない

かと感じます。

とにかく私達に出来る事は感染を回避するための基本の徹底くら

いしかありませんので、皆さんも十分にお気を付けてお過ごし下

さい。

 

さて今回の記事は前回の続きになります。

27年前の1月17日に発災した「阪神淡路大震災」で私は会社

の方針に則り、災害派遣ボランティアの第一陣に志願しました。

当日の夜6時半頃に埼玉県を出発し、東名高速道路を順調に西へ

向け進んでいましたが、名古屋あたりから検問(通行止)に遭い

ボランティア活動であることや支援物資を運んでいる事などを説

明していました。

しかし関西圏には高速道路で入ることは出来ずに下道を遣い何と

か神戸入りを果たしました。

しかし神戸の中心部の目的地に向かう道も各所で通行止めなどが

あり、途中、倒壊している建物や建造物、火災などもあり、目的

地に着いたのは陽が高く昇っている頃でした。

そして我々第一陣の6名が神戸にある相手先の会社の責任者に挨

拶をした時に「よくぞこんな時にここまで辿り着きましたね」と

涙ぐんだ目で我々の肩を抱いてくれたのを覚えています。

 

我々は道中で運転を交代し仮眠を取りながら移動してきたものの

ほとんど寝られていませんでしたが、被災地に近づけば近づくほ

ど、その悲惨さに眠気などというものはありませんでした。

そして挨拶などもそこそこに積んできた物資を一番近い避難所に

運ぶべく移動を開始しました。

その道中も火災の後の焦げた臭いのする場所や倒壊(全半壊)し

た家々が多々あり、道もまともに走行できない箇所があり、まさ

に想像を絶する光景が広がっていました。

 

そして教えられた避難所(学校)に到着し活動を開始しようとし

ましたが相手先がボランティアの受け入れ体制も整っていません

ので指示・命令が不明確で何をどうしていいのか分からずに、た

だただ被災現場の混乱した空気にのまれて呆然としていた時間が

流れていました。

ようやく荷物をおろして一息ついていると避難所を仕切っている

市役所の職員という方から「皆さんには感謝します。しかし皆さ

んの面倒をみている余裕がないので、手伝ってもらいたい仕事が

できたら声を掛けるのでそれまでは待機していてください」と言

われ我々はそれに従うしかありませんでした。

そうこうしていると、もう夜になっていたのです。

我々は私が持ってきたキャンプで遣うコンロでお湯を沸かしカッ

プラーメンを食べて晩飯としました。

そして、寝るのは体育館や教室の避難場所ではなく、トラックの

キャビンに寝袋を使って寝ることにしました。

こうして被災地での一日目が終ろうとしていた時に役所の方から

「明日の朝は炊き出しを予定しているので、その手伝いをして欲

しい」旨を告げられました。

それを了承し日の出と共に活動を開始すべく就寝しようとしまし

たが、体は疲れているはずなのに神経が高ぶり、寒さもあり、な

かなか眠りにつくことはできませんでした。

f:id:kisekisupport:20211230114228j:plain

この時ほど暖かい部屋でコタツにでも入り寝たいと思った事は

ありません。

そしてボランティア活動二日目(発災から三日目)に、あんな

仕事を頼まれるとは夢にも思っていませんでした。

それについては、また続きとさせていただきます。

 

では今日も生かしていただけていることに心から感謝します。

本日もご訪問くださり誠にありがとうございました。

peraichi.com