kisekisupport’s diary

様々な経験と感動を記していきます

先生と呼ばれるのにふさわしいか否か

今日はピーカン🌞ではないのに暑くなりそうな埼玉県中部地域

です。

とにかく大雨が降らなければOKです👍

 

先日、凶弾に倒れ亡くなられた安倍元首相には心よりご冥福を

お祈りいたします。

この事件で連日、容疑者の動機の解明や宗教団体(旧統一教会

の実態や政治家との関係などが取りざたされています。

この政治家と宗教団体との関係は今始まったことではなく、昔

から「政治の闇」としてはささやかれていました。

この件に関して現段階で深堀するつもりはありませんが、関連

して私が感じたことを記事にします。

 

昨日に続き母のことを持ち出しますが、我が母は60年近い美

容師人生で50年来の知り合いをはじめ多くの人から「先生」

と呼ばれています。

確かに「師」という文字が付いているくらいですので「先生」

と呼ばれてもおかしくはないのです。

私は幼い頃に母が「先生」と呼ばれている意味が分からずに

学校の先生でもあるまいし・・と、いつも不思議に感じていま

した。

「先生」という言葉を辞書で調べると、

1.学問や技術・芸能を教える人。特に学校の教師。または自

  分が教を受けている人。師。師匠。

2.教師・師匠・医師・代議士など学識のある人や指導的立場

  にある人を敬っている語。

3.親しみやからかいの意を含めて他人をよぶこと。

4.自分より先に生まれた人。年長者・

などとあります。

その意味はわかります。

しかし私がいつも感じていることは「先生」と呼ばれるに際して

は、それにふさわしいか否かが問題ではないかということです。

例えば教師をとっても、その分野の知識や学力は高いのかもしれ

ません。

ですが人の道に反した行為をする事例は後を絶ちません。

また代議士においても国民の大切な一票を積み重ね選ばれた人で

あり、国民に負託をされているという点においては誰にでも出来

ることではないと思います。

ですがこれもまた明らかに勉強不足であったり、人の道(人生)

を逸脱した考え方や行為をする方も数多くいらっしゃいます。

ですから私はその人の肩書だけを見て「先生」と呼ぶ事に大い

に抵抗があるのです。

私が「先生」と呼ぶのは、心の底からその方を尊敬できると感

じた方しか呼ぶことはありません。

みようによっては傲慢に感じる方もおられるかもしれませんし、

随分と頭の固い奴だと感じられる方もおられるかもしれません。

ですが、これが私の信念です。

ですが「先生」と呼ばれるからには、それ相応の見識と人格が

備わっていてこそだと思うからです。

穿った見方なのかもしれませんが、宗教団体(旧統一教会など)

の組織をあてにしている政治家さんや、患者の目も見ないで診

察する医師などを私は「先生」とは呼べません。

そういうお前はどうなんだと問われれば、私は人としてはまだまだ

未熟であり修行半ばの者です。

ですから私を「先生」と呼ぶ方もいるにはいますが「止めてくださ

い✋」ときっぱりと否定します。

ですから私の人生の目標の一つには「先生」と呼ばれるにふさわし

い人間になることがあります。

他人より少しだけ人生(修羅場)経験が豊富で霊視ができ、少しだ

け知識があるので、悩んだり、困っている方を暗い道から明るい道

へ導くお手伝いはできます。

ですが神や仏の領域には程遠いのが現実です。

ただ私は生涯を費やし「先生」と呼ばれるにふさわしい人間になる

という目標は持ち続けていたいと強く思っています。

皆さんも様々な場面で「先生」と呼ばれる方と接する機会があると

存じますが、今一度その意味について考えてみてはいかがでしょう

か・・

 

では今日も生かしていただけていることに心から感謝します。

本日もご訪問くださり誠にありがとうございました。

peraichi.com