kisekisupport’s diary

様々な経験と感動を記していきます

忘れてはいけない27年前の記憶(後編)

今朝は凄く冷え込んだ埼玉県中部です❆

さすがに大寒だけありますね。

 

さて本日も続きの記事を書かせていただきます。

阪神淡路大震災の発災から三日目、ボランティア活動二日目の朝は

余震と寒さと空腹とトラックのキャビンの体制の悪さにほとんど睡

眠が取れず、どんよりとした感覚で迎えたように思えます。

 

そして夜も明けきらないうちから、市役所の方や地域の方々と大き

な鍋にお湯を沸かしたり、食料や飲み物の配付の準備を手伝いまし

た。

炊き出しと言っても本格的なものではなく、簡単なみそ汁のような

物と、何処からか届けられた菓子パンやおにぎり🍙カンパンなどで

した。

そして朝の7時過だったでしょうか、その避難所にいた人々が列に

なり配付を開始しました。

その時ばかりは多くの方が笑顔で受け取られていたのが印象的でし

た。

地域の長と思しき方から我々にも「君らも遠慮せんとちゃんと食べ

てや~」だかとお声がけしていただいた時には感動したのを覚えて

います。

その後、我々は届いた荷物の仕分け作業などをしていました。

そして昼になるかならないかという時に、とんでもなく、未だに忘

れる事ができない、いや一生の記憶に残る事を先ほどの長から頼ま

れたのです。

それは近くの倒壊した家から、ご遺体を安置所のある場所まで運ん

で欲しいという依頼でした。

どうやら倒壊した家から亡くなられた方が発見されたものの、警察

や消防、自衛隊も手が回らず、自家用車に載せて搬送するわけにも

いかないということで、トラックを貸して欲しいというものだった

のです。

我々はあくまでも出来る事は何でもしますというスタンスでいまし

たし、あの時の被災地の状況(現実)から断るなんて思考は微塵も

ありませんでした。

そして倒壊現場に到着すると長から「一緒にお願いします」と言わ

れ着いて行くと毛布にくるまれ、別の毛布に乗せられた、ご遺体と

思しきものが横たわっていました。

我々は四人でそのご遺体を持ち、できるだけ丁寧にトラックの荷台

に入れました。

その時の感情は、怖いとか気持ち悪いとか嫌だとかというものはな

く無に近い状態で、ただただ手に伝わってくるご遺体の重みだけが

感触として残っています。

後になって振り返ると、大災害の現実だとか命の重みだとかを感じ

られるのですが、その実際の現場にいる時には「無」でしかなく、

もしかした心を「無」にしなければ耐えられない精神状態にあった

のかもしれません。

そして、ご遺体を安置所に運び終え、長から労をねぎらう言葉と感

謝の言葉をかけられた時に、ドッと疲労感に襲われたのを鮮明に覚

えています。

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そしてその夕方に会社から、次の日の朝をもって撤収しろとの命が

下されました。

正直に申し上げて、その撤収の響きに安堵した自分がいたことは間

違いありません。

そう、私は自分はもう少し心身共に強い人間だと思っていました。

しかし大災害のあった土地勘のない被災地で余震に寒さに空腹に疲

労に汚れていくトイレなどに限界を感じていたのも事実です。

被災者の方々には本当に申し訳ないのですが、これで帰れると思っ

て安堵している自分がいたことをここに正直に告白します。

 

発災から四日目(ボランティア活動三日目)の朝も食料と飲料の配

付や体調を崩した方々を病院に搬送したりしていました。

そして昼に自分達で持ち込んだカップ麺を食べ終えた後、お世話に

なった市役所職員の方々や地域の長に撤収する旨、お礼を伝えに行

くと逆に謝意と励ましをもらい、どちらが被災者でボランティアな

のか分からない心境になりました。

私は何故か涙が出て止まりませんでした😢

完結編に続く。。。

 

では今日も生かしていただけていることに心から感謝します。

本日もご訪問くださり誠にありがとうございました。

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