kisekisupport’s diary

様々な経験と感動を記していきます

人は誰もが一人で生まれ一人で死んでゆく

私は昨夜、誰かの葬儀に参列はしているのですが、その誰かが遺影

も見えず分からないで苦慮しているという何だか後味の悪い夢を見

て目が覚めました。ただただ予知夢でないことを願います。

そんな夢をきっかけにこんなことを改めて考えましたので記事にし

ておこうと思います。

 

人は一生の中で幾度となく悲しい出来事に遭遇し落ち込んだりしま

す。

数ある試練の中でも愛する人(ペット)との死別は厳しく立ち直る

にも時間を要することがあります。

ただこれは人としての感性が備わっている証拠でもあります。

けれど、いつまでも悲しんで泣いてばかりの暮らしでは前に進むこ

とはできません。

どのような試練であっても現実を受け入れ、そこからどう立ち上が

っていくかを冷静に考えていく学びこそが生きる目的でもあるので

す。

現世に生まれた私たちが共通して学ぶべきことに「自律心を養う」

というものがあります。

自分のことは自らの責任において決めていくというものです。

自己責任で生きていくということは、それ相応の覚悟というものが

必要になります。

腹を括ることで、あらゆる人間関係のしがらみや期待を裏切ること

などの恐怖から解放されるでしょう。

自己責任で生きるということを孤独と捉える方もいらっしゃるかと

思いますが、孤独とは自分の怠惰が作り上げるものなのです。

人とのつながりを大切にしながらも哲学を持って生きることを

「孤高」といいます。

「孤独」と「孤高」は違うのです。

なので私は「孤独死」という言葉に若干の違和感を覚えます。

何故なら人は誰しもが一人で生まれ、一人で死んでいくものだから

です。

それが「宿命」というものです。

その覚悟ができている人までもを孤独だと憐れむのはおかしいので

はと思うのです。

「孤高」に生き「孤高」に死んでゆく人は「満足死」と言っても良

いのかもしれませんね。

f:id:kisekisupport:20211129122544j:plain

ただ人は死んだ後も誰かの世話にならなくてはなりません。

誰にどんな形で世話になるのか、そのためには日々どんな生き方を

しなくてはいけないかが重要になります。

死について考えることは決して後ろ向きでも縁起が悪いことでもな

く、今をどう生きるのかを真剣に考えるということなのです。

病気で苦しむ人などは、自分の死のタイミングを自己責任で自分で

決めたいという人もいるでしょう。

その顕著な例が「安楽死」です。

しかしスピリチュアル(霊的真理)の視点からするとそれは自殺に

等しい行為になります。

延命治療をせずに自然死を迎える尊厳死とは違うのです。

確かに重い病に苦しんだりすれば死を選び自身も周囲も楽にしてや

りたいという想いは理解できます。

しかし、あくまでも寿命(長短ではない)を全うしてこそ現世での

学びを終えたということなのです。

 

どうですか、皆さんは自分がどう生きて、どう死んでゆくかを真剣

に考えたことはありますか?

もしも考えたこともないとか、漠然としているという人は一度、じ

っくりと自身の人生を考えてみてはいかがでしょう。

何かが視えてくるかもしれませんよ(*^^)v

 

では今日も生かしていただけていることに心から感謝します。

本日もご訪問くださり誠にありがとうございました。

peraichi.com