kisekisupport’s diary

様々な経験と感動を記していきます

高校球児誕生(その1)

今、甲子園では春の選抜の熱戦が繰り広げられていますね。

この記事では私の昔話の中でも大きな出来事について書きます。

私は小学校1年生から地域の少年野球団に入りました。

当時の遊びと言えば「缶蹴り」「けいどろ」か「野球」だった

ように記憶しています。

その幼少期の事はまたの機会に記事にさせていただきますが

ここでは高校生での出来事に焦点をあてて書きます。

私は中学校での進路決定時に高校は野球で甲子園を狙える強豪校を

視野に考えていました。

実際、東京都のとある私立学校からのお誘いはありました。

私は中学校時代の野球部キャプテンが地元の学校に行くと

聞き「〇〇高校には野球部ないじゃないか?」との会話から

それなら「二人で野球部をつくっちゃおう!」という話になり

私は私立のお誘いも強豪校の夢も全てを捨てて地元の高校に進学し

野球部を立ち上げる事にしたのでした。

そこは県立高校で自宅からは歩いても15分程の距離ですし、

両親も何も言わなかった(担任や進路指導先生は残念がってた)ので

何の疑いもなく進路を決めました。

 

そして高校に入学しすぐに野球部立ち上げに関しての相談を開始

しました。

今、思えば何の確約もなく困難も多かったのですが、その時は

自分の行動にうまくいかないはずがないという根拠のない自信しか

なかったのです。

そして友と二人で始めたことは、野球同好会の立ち上げと加入

希望者を募ることでした。

するとヤンキー、いわゆる不良も含めた50人程が名乗りをあげて

きました。

当時はサッカーや他のスポーツよりまだ野球人口の方が多かった

ので人集めは容易でした。

しかし難航したのは顧問先生探しです。

ほとんどの教師はすでに何らかの部活を持っていましたので、

手を挙げてくださる先生はいなかったのです。

しかし私と友人は職員室を一人ひとり当たり、たった一人だけ見つけ

だしたのです。

その教師は新人で我々と同じく4月に教師になりたての先生だったの

です。我々はこの人しかいないと

「名前だけでいいので顧問になってもらえないか?」と交渉を始め

ました。

しかしすぐには首を縦には振っていただけなかったのです。

何故ならこの先生はスポーツが苦手で当時には珍しく野球経験もゼロで

キャッチボールも出来ないからと言うのです。

我々は「いやいや指導は必要ありません。とにかく名前だけ貸して

下さい」と今思えば大変に身勝手なお願いを繰り返したのです。

すると数日後にその教師は「顧問をやるよ」と引き受けてくれたの

でした。まず一つの問題は解決しました。

次の問題は野球をする場所問題です。校庭はすでに強かったラグビー

とサッカー部が使用していて微塵の隙もありません。

で考えたのは移動に時間は掛かるけど自転車で15分程の所にある

行政が管理する河川敷のグラウンドです。

そこは平日は基本的に空いているし、とにかく広いので誰にも迷惑を

掛けないのではと考えたのです。

そして我々は役所に行き担当部署との交渉をしました。

すると何とキセキが!

少しだけ待たされただけで「土日祭日以外なら使用を認める」と

いうのです。ホントに驚きました。こんにスムーズに行くとは。

そしてこの話には続きがあり、そのやり取りの最後に担当者が

「市長が話たいとの事なので市長室に案内しますね」と。

我々は言っても高校一年生ですから緊張しながら市長室に入ると

「〇〇高校に野球部をつくるんだって?いや~私は以前から地元の

高校に野球部がないのが悔しくてね、是非とも頑張ってくださいよ」

とおっしゃって下さったのです。そして何とポケットからサイフを

出すとポケットマネーで1万円札を出しそれを我々に手渡し

「少ないけどボールでも買いなさい」と笑顔で下さったのです。

我々は感動し深々と頭をさげお礼をし部屋を後にしました。

そして、その足で卒業した母校の中学校に行きお世話になった先生方

に報告に行ったのです。

すると職員室にいた先生方が大変に喜んでくださり、やはり

ポケットマネーを少しずつ我々にくれて

「道具の購入の足しにしなさい」とお金を渡してくださったのです。

その時の感動は今でも忘れません。

 

 

と長くなりましたので今日はここまで。

本日もお付き合い誠にありがとうございました。

今日も生かしていただけていることに感謝いたします。

 

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